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メモ
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メモ(1)
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修了年 修士論文タイトル 1995 「とりたて詞」に関する研究―「も」の推論過程― 1996 中古語の助動詞「む」について―意志モダリティと人称制限― 1997 発話行動を表す動詞の使い分けに関する研究―日本語教育における日本語と中国語の対照的研究― 1997 現代日本語における「注釈的成分」の意味機能―「やはり」の意味機能を中心に― 1999 連体修飾の語用論的考察―曖昧性が解消される過程― 1999 文末表現「のだ」の研究 1999 現代日本語における終助詞「わ」の研究 2000 現代日本語における注釈の誘導副詞の語用論的研究 2001 日本語CMCにおける「まあ」の使用に関する調査研究 2003 折口信夫『死者の書』における結束性と一貫性 2003 日本語・中国語間の翻訳における結束性の保持と調整―芥川龍之介「羅生門」に関する事例分析― 2003 Non-addressee発話の機能と効果に関する調査研究
メモ(2)
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語用論は救いだった うちのゼミの学生が語用論的な手法を使った研究発表をすると、 だいたい「客観性に乏しい」、「体系的でない」、「結論が不明確だ」 などといった批判を他の先生方からしばしば受けてきた。 それらはいわば「科学(サイエンス)」という見地からの批判である。 ゼミ学生に肩身の狭い思いをさせることは、指導する側としては誠に申し訳ない。 「高本研究室に来たばっかりに……」と少々不憫になったものだ。 しかし、ぼく個人にとって「語用論」との出会いは救いだった。 語用論には、己れの主観性や主体性を回復してくれる癒しがあり、 部分的・限定的なことにひたすら打ち込める自由さがあり、 到達点にこだわらずにプロセスを楽しんでいいんだという気楽さがあった。 「語用論」と出会って以来、「ぼくは今こんなつまらないことをしています」と 自信をもって言うことができるようになった。 語用論は実際に言われたことだけでなく、言われなかったことも問題にする。 また、思い浮かべられた解釈だけでなく、まだ思い浮かべられていない 解釈候補も問題にする。つまり、客観的に観察できる現実の様相だけでなく、 主観的に省察することしかできないような可能性をも取り扱うのだ。 そのため、しばしば科学的な実証性や合理性を超えた議論が必要になる。 「言語学は科学だ」と言い切る人がいるが、ぼくは、次のように考えることに している。「科学的な言語学の価値はもちろん認める。しかし、 言語学のすべてが必ずしも科学である必要はない」\footnote{% 抑鬱した大学院生の暮らしの中で、 ぼくの言語学は「科学(サイエンス)」であるよりも、 まず「人文学(ヒューマニティーズ)」でありたい、 と思うようになった。むかしこっぷり、どじょうの目……。 }。 語用論は、ことばと人との関わりをありありと見ようとする一つの姿勢である。 そこでは科学的な厳密さよりも、人間的な寛容さが必要とされることがある。 それをぼくは「プラグマティック・トレランス(語用論的寛容)」と呼んでいる。 語用論的な寛容!(Be pragmatically tolerant!)
メモ(3)
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Last-modified: Thu, 14 Apr 2005 20:01:14 JST (6959d)