群読用詩構成の暫定台本 Edit

 『ケンジ先生』終演後のプチ上演作品用の台本(暫定版ながら)何とか仕上げた。

 かねてより、終演後の舞台挨拶に引き続いて、宮澤賢治の「雨ニモマケズ」を、ジョルジオの構成で群読しようという提案が熊澤さんからあった。こちらの条件は、『ケンジ先生』のCDに収録されている「光降る朝」の合唱と組み合わせること。この歌を車の中で流しながら何度泣いたことか。

 「雨ニモマケズ」+「光降る朝」という組み合わせなら、もうそれだけでも十分であって、下手に手を加える必要はないとも言える。もっとも単純にやれば、「光降る朝」の前半コーラス、それに引き続いて、カラオケ版「光降る朝」にのせて「雨ニモマケズ」の朗読(群読)、そして、静かに「光降る朝」の後半コーラス。「雨ニモマケズ」を朗読したときの長さは、ほぼ「光降る朝」のワンコーラス分に相当する。

 だが、何かひとひねりがほしい。あんまりストレートに「雨ニモマケズ」を観客のみなさんにぶつけることはしたくない。それだと、何だか、舞台の上から「ガンバレ!ガンバレ!」と言っているような気がして、後ろめたさが残る。劇作品『ケンジ先生』が観る者に残す印象は必ずしも「ガンバレ!」ではない気がするのだ。もとより、あまり強いメッセージ性はぼく自身があまり好きではない。常にぶよぶよとしていたい。

 『ケンジ先生』というお芝居の魅力は、教師アンドロイド・ケンジ先生のチカラによって、登場人物たちが《善意》と《希望》へ導かれていくところにある。そのチカラは、ケンジ先生というアンドロイドのモデルである「宮澤賢治」に起因するはずだ。そこでひらめいた。アンドロイドではない、生身の人間的な宮澤賢治に登場してもらおう。劇中ではアンドロイドのケンジ先生を演じた役者に、終演後の群読では、生身の人間特有の不条理さや不可解さや曖昧さや漠然性を表現してもらおう。

 こういう意図で作ったのが、本日「暫定版」をメンバーに配布した群読用詩構成の台本である。ケンジ先生役の者は、宮澤賢治の三つの詩(「雲の信号」「林と思想」「曠原淑女」)から抜き出して配列した詩句を「せりふ」として読む。このせりふは、それ以外の役者が交互に(あるときは声を重ねて)朗読する「雨ニモマケズ」に割り込むことで、「雨ニモマケズ」が有する論理性や教条性に対して一定の「待った」をかける。「雨ニモマケズ」は二重に切り裂かれていく。

 「雨ニモマケズ」に割り込んで、それを切り裂く側の詩句が、複数・多重の声によって切り裂かれつつ読まれていく「雨ニモマケズ」の断片をつなぎ合わせる効果を聴き手に与えることができれば、群読としては大成功である。しかし、バラバラのままでも構わないと思っている。「光降る朝」のコーラスに移行したときに、聴き手の記憶の中にとどまった言葉の断片は、弱く強く、互いに引き寄せ合っていくはずだからである。

 今日は群読の練習をする時間がとれなかったが、稽古の合間や稽古後のミーティングの場を利用して、ケンジ先生役のサトルとチカには、「アンドロイドではない、生身の人間である宮澤賢治が、幻の中で語るようなせりふとして読んでもらいたい」と注文をつけた。また、それ以外の役者には、「けっして自分が演じる役のせりふとして読まないでほしい」とお願いした。「雨ニモマケズ」は、たとえ断片であっても、メンバー一人ひとりの「わたし自身の声」で読んでもらいたい。しかし、声はバラバラでも、意識はつなげること。「雨ニモマケズ」という作品がもつひとつの意味世界をきちんと構成すること。これなくして、群読の面白さはない。


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Last-modified: Tue, 22 Feb 2005 03:40:41 JST (7003d)